Riot in the Sky with Diamonds(04)

「あれ? もういいのか」
「……ああ。朝倉聞けよ」
 平静を装いながら、不意に胸を押さえていた。そして、自分でも驚くほどに動悸が激しいことに気が付く。
 短距離を全力疾走した後と同じ、いやそれ以上かと思う程の強烈な酸欠。深く短い息を繰り返し、どうにかこうにか落ち着こうと努力する。朝倉が心配そうにこちらを覗きこんで来た。
「どっか悪い?」
「平気だ。――時間だし、もう行く」
「送るよ」
「大丈夫。お前は、それ聞いてろよ」
 差し出されかけた手を振り払い、俺は「じゃあな」もそこそこに、朝倉の部屋を後にした。
「梶、有難うな! また明日な!」
 朝倉の声が階上から降ってくる。俺は前を見たまま頷き、少し足早に玄関を出た。
 耳元にはまだ、朝倉の指から移った熱が灯っている。


 俺たちの世代が生まれる前に、大規模で長期的な文化改革があった――らしい。
 現代社会の教科書では、簡潔に三行ほどでまとめられている箇所だ。理由は色々あったという。多様になり過ぎた娯楽の所為で国民、もっと言えば若者の意識が変わり、風紀が乱れ治安が悪化した、という。傷害や殺人といった重い事件が後を絶たず、当時の有権者たちは病とさえも表現した。だから、いっそその原因を全て失くしてしまおうと、精神に悪影響とされる娯楽を、俗文化規制法と称して廃止した。精一杯生きている虫を、ただうるさいという理由だけで駆除するが如く。この国を、清く正しくするために。
 規制が掛かって十八年。俺たちが普段触れることのできる娯楽は、おかげさまで極端に少ない。唯一スポーツだけはあるものの、音楽はクラシックか伝統芸能が中心、テレビ番組はドキュメントとニュースばかりになり、映画は道徳的に良いものが主流になった。多くの失業者が出、海外に出稼ぎに行く人が増えた。その為、経済が外交主流になった時には、「日本は食品や機械や薬の他に、人間をも輸出している」とも揶揄されていたそうだ。
 そしてその一大変化の皺寄せが、今俺たちの世代を苛(さいな)みかけている。子供が皆他人を警戒し、格付けし合う理由。国の輸出品と揶揄されぬように、勉強し、良い学歴を身につけ、確固とした居場所になる職業に就かなければならないというのが、一般的な思想になってしまったからだ。
「志恩(しおん)。帰って来たならただいまを言いなさい」
「――はい」
 玄関の音で気付いたのだろう。母が今から顔を出して咎め、俺はほぼ機械的に返事をする。志恩――俺は、この下の名前で呼ばれるのが好きじゃない。それが例え、こう呼んで当然の肉親であっても。
 俺は母の顔を見る。サプリで栄養を管理しているにも関わらず標準より少し太っている母は、俺に急に真っ直ぐ見つめられ少したじろいだ。
「夕ご飯も早く食べてしまいなさい」
「いりません」
「え? 何を言っているの」
「夕食はいりません。具合が悪いので。それに、明日の小テストの準備がしたいんです」
「志恩、でも、お父さんが――」
「放っておけ」
 居間から低い声がし、母が中を振り返った。父がいるのだ。
「貴方、でも……」
 父親は気付いている。自分に対し、俺が向けている不満を。幼い頃からあれをしろこれを見ろそれを聞けどれを摂れと言い続けたのに、その反動で清く正しく育つのを拒否しかけている俺の胸中を。だから敢えて今は干渉せず、離れすぎない位置を保って俺を監視しているのだ。
 父の一声で引き下がった母を尻目に、俺は二階の自室へと向かった。階段を一段上がるごとに、身体が重くなっていく。部屋に着いて鞄を降ろし、俺は力なく机に向かう。両親の顔を見たせいで極端に張り詰めた緊張が、一瞬のうちに弛緩しきった。
 塾でやった英語の参考ソフトを鞄から取出し、机に設置された電子ノートを開く。ブルーライトに浮かび上がった黒いアルファベットたちの上を、視線が雨水のように滑って行った。全く集中できない。塾で教わったことも講師の声も、何一つ思い出せない。ただその代わりに、
――ほら、梶も聞いてみろよ。
 朝倉の、掠れた穏やかな声。
 耳たぶには温度が、鼓膜にはあの音楽が蘇る。
 あれはきっと、十八年前に死んだ音楽の残党だ。
 聞いた時、あいつ――朝倉には、俺には見えていない景色を見ていた。それが何なのか、俺にはわからない。けれどどうしても知りたかったから――目の前の英単語の羅列など無視して――俺はあの音楽を思い出していた。三分もない短い時間のことを、詳細に。
 あの薄い円盤から奏でられる音は酷く歪んでいて、歌声も決して綺麗ではない。がさついた荒々しい男の声と、金属や電気を通したごつごつした音達。鼓動の様に鼓膜を打ちつける破裂音。咆哮。怒り、訴え。俺の耳から頭、そして体にかけて流れ込んできた音の洪水。今まで生きてきた中で、これほど泥臭い音楽には出会ったことは無い。けれどだからこそ、あの声はその衝撃に胸が掻き乱され、俺はすぐに呼吸さえも出来なくなった。
――苦しい。
 助けてくれ。と、唐突に叫びだしたくなる。けれどここには誰もいない。溺れかけている俺に手を差し伸べてくれる人など、この世界のどこにもいない。人は皆、他人に触れずに生きてきた。誰かに触れるのはタブーで、それは暗黙の了解で、誰一人として互いにパーソナルスペースを侵してはならない。意見し合うことも無く、示し合せることも無く、何かを分かち合うことも無い。だからだ。だから、俺は他人が怖い。自分を守ることに精一杯で、いつ誰かに蹴落とされないか、そればかりを思って周りを警戒している。浅はかで薄っぺらな大人が良いと言ったものだけを摂取して生き、知らない内に格付けされる、棚に並べられた無力で無知なホルマリン漬け。掴む物さえないこの世界の中で、俺はわけもなく泣きたくなる。濁流は俺の中に溜まっていたものを全て押し流し、
 頭の中では朝倉が笑う。屈託なく、目をきらきらさせて。
 次第に荒くなる呼吸の中で、俺は電子ペンを投げ出していた。腰の奥、その下に熱が溜まり、底の底に押し込められていた感情が堰を切りそうなほどに膨れている。あまりの窮屈さに片手でスラックスのベルトを外すが、それでも閉塞感は変わらない。代わりに手のひらは理性を失くし、本当に俺のものかもわからなくなるほど真っ直ぐに、その先にあるものを目指す。それは俺の意思をまるで無視して硬直し、熱く腫れ上がっていた。
 ああ――押さえつけて宥めなければ。放っておいたりしたら、俺はきっと支配されてしまうだろう。煮え滾るような温度を持った下半身に反して、上半身はがたがたと震えた。それを撫でまわす手は止まらず、わけのわからなさに涙さえ滲む。この気持ちを何と例えたら、俺は楽になれるというのだ。恐怖だというなら、守ってくれ。悲しみというのなら、慰めてくれ。怒りというのなら、壊させてくれ。それ以外というのなら――薬以外で――
「……――ッ、ふ、ぁ――」
 呻き声。
 それが俺自身の声だと分かった時にはすでに、視界は白く――
 蕩(とろ)けた脳が再び凝固する頃には、肩で深い息をしていた。青臭い臭いが部屋と体内に充満し、どうしようもないほどの倦怠感と自己嫌悪が募る。あの音楽は耳元からすっかり消え失せ、そこには朝倉が触れた熱の残滓だけがあった。
 数センチだけ開けた窓から、冷めた夜風が這入ってくる。青白い蛍光灯の光と、電子ノートに散らばる英単語の冷めた眼差し。けれどそれらは、空っぽになった俺に何一つ与えてはくれない。それでも、今自分がしてしまったことの意味は不思議なほどに理解ができた。
 動きを止めた思考の中で虚空を見つめ、俺はただ一つ呟く。
「――最悪だ」

(Riot in the Sky with Diamonds--FIN.)
※続きは同人誌『Asymmetry』にて読むことができます。