もしも朝、先に目が覚めたら(08)

「小説だよ。えりが書いてる小説。ねぇ、あの主人公って、えりなの? 自分自身? ふふ、笑っちゃう。馬鹿らしくって、ほんとは途中から読んでないよ」
 言葉にもならなかった。ほんのちょっとで堰き止めていたものが、一気に溢れる。私は走って麗に詰め寄り、腹と胸に蛆のように沸き出した気持ちをどうこの女に吐き出してやろうかと、ただそればかり考えて。
「な、何――ッ、」
 後ずさる麗の長い髪を掴んで引き寄せる。手や鞄が私の身体に当たり、髪の間から睨まれたが、私は不思議なくらい怯まずに叫んだ。
「あんたなんかに――あんたなんかに! 何がわかるのよ!!」
 わかるまい。容姿も家庭も悪く、誰にも気に留められない、誰にも愛されることの無い、愛されようとしても愛されない私の気持ちなど。あれだけが、小説を書くことだけが私の全てだったのに。麗が読んでくれていたから、書いていたのに。私は目茶苦茶な罵詈雑言を叫び続けた。傍から見れば一方的に麗に暴力を振るっているように見えるだろうけれど、そんなことどうでもいい。私は元々醜かったのだから。醜い自分を隠して周りを欺いていた、この女の方が罪が重いんだから。
 嘘だった。全て。麗がいてくれたから変われたと思っていたのに。親友だと思っていたのに、ただの道具か――いやそれ以下に――玩具だったのか。
 私はポケットの櫛を握り締めた。痛いほどに。瞬時に引き出し、振りかざす。声が閃く。麗の大きな目が見開かれ、そして、
 私は――牙の如く――その手を――振り下ろした。



 信じられない。信じられるはずが無い。
 ローゼッタは夜を駆け、一目散に町へと向かった。ぽつぽつとともる街灯を目指し、裏手に広がる森からそっと這入った。記憶の中では祭の準備に耽っていた町は、夜だという時間帯を考慮せずともしんと静まっているように思える。祭りの主役であるローゼッタが倒れ、祭どころではなくなったのだろう。ナタリーは――
 ナタリーはどうしているだろう。自分がいないことに、傷ついていないだろうか。悲しんでいないだろうか。
 ローゼッタは脇目も振れず、つい先日まで暮らしていた自分の家へと舞い戻る。裏手に回れば、丁度ナタリーの部屋の窓から弱い明りが漏れていた。起きているのだ。もしかしたら、泣いているのかもしれない。今すぐ抱きしめたいけれど、この姿のままでは自分だと気付かれないだろう。それどころか、怖がられ、拒絶されるに違いない。この姿は、とても普通の人間に見せられるものではないのだから。
――いや、もしかすれば、ナタリーならわかるかもしれない。だって、私たちはあんなに愛し合っていた。
 窓に触れようと手を伸ばすと、中から微かに彼女の声が聞こえてきた。ああ――ローゼッタは愛しさに身が千切れそうになる。けれど、その声は泣き声でも話し声ですらも無かった。
「あっ……あ……」
 手が止まる。それは、確かにナタリーだ。短く発せられる濡れた声と、それに合わせて軋むベッドの卑猥な音。彼女は一人では無い。ほどなくすると、焦燥感さえ漂う二人分の吐息の中で、聞いたことの無い――あるいは、聞き覚えがあるかもしれない――男の声がした。
「ナタリー……良いのかい、こんなことをして」
「あっ…………――どうして?」
「あの子が、恋人だったんじゃないのか……死んでしまってまだ、少しなのに」
 あの子。
 それが自分のことだとわかるまで、ローゼッタには数秒の時間が必要だった。しかし、その間も音と声は絶えず続いている。
「あっ、あっ、あっ…………ッ――」
 ナタリーは声の無い叫びを上げ、そこで音と会話は止まった。
 衣擦れの音。ローゼッタは息を潜め、彼女が男の質問に答えるのを待ちわびる。空には満月に薄雲がかかり、空気を染める闇を少しばかり濃く翳らせていた。
「――……そうね、あの子は――エッタは、恋人で、家族だった。でも……この町みたいにつまらない子だった。歌は上手かったし、容姿も良かったけれど。結局、それだけ。家事も何でもしてくれて、私を絶対肯定してくれる、私だけのお人形よ」
 微かな音がして、ナタリーが立ち上がる気配がした。
「でも、お人形でも役に立つことはあるの」
「……それは?」
「あの子の、遺髪よ」
 カーテンの隙間からプラチナブロンドの束が見え、部屋の灯りを受けてきらきらと光った。
「これを帝都の医療機関に持ち込んで、あの奇病を治す薬を作るの……エッタの力は、帝都の調査団も目の当たりにしてるから、疑われることも無いでしょう……そうすれば、私は富も栄誉も貰える。こんな田舎町にも居なくて済むの。……ふふ、貴方もどう?」
「……ナタリー、君は酷い女だな」
 言いながら、男の声もまた楽しそうだった。
「どう致しまして。でも、人間なんて二種類しかいないわ……私みたいに酷いか、あの子みたいに馬鹿かの」
 ナタリーはまたベッドに崩れ落ち、しばらくするとまた濡れた声を上げ始めた。同時に――蛆の様に湧き出した血生臭い感情が、ローゼッタの腹を突き破る。気が付けば、その醜く太い腕が家の壁を粉々に砕いていた。至近距離で立った轟音に、寝床でまぐわう二人が呆けたように目を見開いていたのが見える。ナタリーが叫ぶ。しかし怒りに支配され、外見だけでなく中身まで異形の怪物と化したローゼッタには、その声は聞こえなかった。シーツにまとわりつかれ逃げ遅れている男を巨大な手で薙ぎ払い、真っ直ぐにナタリーの白い身体を掴む。しばらくぶりに見た愛しい者の顔は、突如として襲いかかってきたわけのわからない恐怖に醜く歪んでいた。
 鋭い爪が彼女の肌にめり込み、引き裂く。ローゼッタは禍々しい声で叫びながらその大きな口を開き、そしてその牙を、
 彼女を目掛けて、真っ直ぐに――降ろす。
 ああ、ナタリー。
 愛しい私の唯一の家族。
 貴女のことが好きよ。

 けれど私は、やっぱり一人だった。
 人間は二種類しかいないって貴女は言ったけれど、
 本当は一種類しかいないわ。

 人間なんてみんな、酷くて馬鹿で、醜い。
 私はシャープペンを握ったまま、麗の血の付いた櫛を見つめる。
 こびりついた赤が、机の上にも零れている。麗の、血が。
 ああ、ナタリー。嘘だと言って。これは夢だって言ってよ。
 私は今、眠っているだけ。
 次に目が覚めたら、こんな醜い私はどこにもいない。

 美しく、優しく、歌が上手く、
 誰からも愛されるような女の子になってるの。
 嗚咽。ノートの上に、涙が沁みを作っていった。
 シャープペンを投げ捨て、私は両手で顔を覆う。私は一体、何だったんだろう。何もない。私には何もない。無くなってしまった。
 何にも無いなら、何故生まれて来たんだろう。
 麗、
 ナタリー、
 もしも朝、先に目が覚めたら、私を起こして欲しいわ。

 この世界で一番幸せよって、優しく揺り起こして。
 そして、ねぇ、
 もっと、

  愛

    


       て



(もしも朝、先に目が覚めたら--FIN.)