もしも朝、先に目が覚めたら(07)

 ぞっとした。それでも、同時に納得している自分もいる。肌に黒い斑点を見た後の記憶は完全に無く、自分が意識を失ったことは今まで見た患者と照らし合わせても明らかだったからだ。
 自分と他の患者の違いと言えば、多分、今こうして無事に生きていることだろう。普通の人間なら、この病で意識を失えば二日と経たずにそのまま死んでしまう。けれど自分は特別な存在――この病を治すことができる、唯一の人間――だから、死なずにいたのだと思う。
 それにしても、町人たちは薄情なものだ。あれだけ力を尽くしたというのに、自分がまだ息があることも気付かずに、墓に埋葬するなんて。衝撃と悲しみで気が触れているのだろうか。自分がこのような状態になって、ナタリーは町人達に何も言わなかったのだろうか――
 まぁいい。ローゼッタは夜闇の中で息をついた。この墓場なら、普段から掃除などをしに度々訪れていた。暗くとも、町までの道順くらいはわかる。よろめきながら立ち上がり、ローゼッタは月明かりを目印に歩き出した。影になっていて自分自身の身体は見えない。しかし、何故か無性に重く感じる。服の所為だろうか。力ない手で身体をまさぐってみたが、湿っぽくて厚く、弾力をも感じる特殊な衣服は、触ってみただけでは見た目の想像がつかなかった。葬儀の際、こんな服を着せる風習なんてあっただろうか? それとも、単に泥が付いているだけか。町に着く前に、自分が今どんな姿なのか確認していた方が良い。できれば着替えたいし、泥なら洗い流してしまいたい。それに、とても喉が渇いている。確か町までの間に、小さな泉があったはずだ。
 草木が揺れ、鳥が啼いた。足元はぶよぶよに腐食しており、足を踏み出すたびに沈み込む。寒い森の中を一人きりで歩きながら、ローゼッタの心はこの境遇の理不尽さよりも不安と恐怖でいっぱいになっていった。早く帰って、ナタリーに会いたい。温かい毛布の中に二人でくるまり、最後の記憶の続きをしたい。幸せな時間を過ごしたい。歯を食いしばる口内に、恐怖で流れた涙が入り込んでくる。けれど、こんな塩辛いものでは喉は潤わない。もう少しで泉に着く。喉が渇いた。早く。こんな場所。町に帰って。ナタリーに。
 目の前が開けた。ああやっと着いた。満月と、数え切れないほどの星が泉の水面に映っている。綺麗。なんだか、数年ぶりに見たみたいだ。泉はしんと静まり、しかし水の気配は心細かったローゼッタを癒した。さぁ喉を潤して、身体を洗おう。ローゼッタは身をかがめ、手のひらに水を掬おうとし、

アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!

 自分のものとは似ても似つかぬ恐ろしい声が、喉から深い夜の空へと放たれた。
 あまりの濁音に、今度は口を押える。しかし、顔を抑えてローゼッタは初めて認知した。その腕は、人間のものでは無い。虫の様に節くれ、どろどろに爛れた皮膚をもつ太い指と腕。恐る恐る水面に屈めば――ずんぐりとした体にぎょろついた目、不揃いで巨大な牙を持った、凝視していられないほど醜く恐ろしい怪物が、水面を隔てた向こうにいる。
 ローゼッタは自分の顔を、身体を触る。水鏡のままの牙や爛れが、不快な感触を持ってそこにあった。思わず必死で水面を叩いてみても、再び静けさを取り戻せば、怪物は変わらずそこにいた。信じられないことだが、紛れもない事実である。絶望的で残酷な、今現在の自分の姿。病に倒れ、しかし生きながらえたのでなく、自分は一度死に、そして怪物として蘇ったのだ。
 ローゼッタは再び――美しい歌を披露していたはずの声とは似ても似つかない、汚らしい唸り声を上げて泣き喚いた。



「えり、おはよう。昨日はごめん。先生の用事長引いちゃったんだ」
 朝――何事も無かったような麗の声に、私は無表情で振り返った。
「いいよ」
 けれど麗は、私のそんな些細な表情の違いには気付いていないようだった。いつもどおりに快活な笑顔を作って、軽く私の肩に触れる。
「今日こそは、帰りにあのお店寄ろう? 悪いことしちゃったし、クレープでも奢るよ」
「……うん」
 教室の奥で、石川さんたちがちらりとこちらを見た。私は俯く。石川さんたちは、麗が自分のために私と仲良くしていたのに気付いていた。当事者のくせに気付かず友情ごっこをしていた私は、さぞ滑稽に映っただろう。私の様子を見て、麗がわざとらしく――昨日までの私なら、嬉しく思っていたかもしれない――眉根を寄せた。
「どうしたの? 何か嫌なことあった? 相談に乗るよ」
「ううん。昨日体調悪くて、眠れなかっただけだから」
「そっか。大丈夫? 今日、行ける?」
 石川さんたちが、私を笑っているような気がする。  私は教室の隅から背を向け、麗の目を見ないように頷いた。寝不足なのは否めない。実際、あれから私は一瞬たりとも眠っていないのだから。闇に塗りつぶされた天井を見つめながら、母を迎えに来た男の車の音を聞き、朝一で洗濯機を回したが朝食は食べる気がしなかった。耳に入るもの、目に入るものが全て薄っぺらな上辺だけの者に感じる。何の感嘆も感傷も無く無心に一日を終え、約束通り麗に先導されて私は雑貨屋に向かった。
「えり、この髪留め似合うんじゃない?」
「そうかな……」
「うん。あ、あれはどう?」
 私の様子がおかしいのをおもんばかってか、麗はいつになく饒舌だった。私はずっと黙っているのに、似合うだの良い感じだのと言葉を重ねる彼女が滑稽で、なんだか悲しい。けれど付きまとってばかりではなく、すっと離れてはこっそりとレジに向かう。髪飾りを試す振りをしながら、私はその背中を横目で見る。そして私が気付いてないとでも思ったのか、店を出て早々に声のトーンを上げた。
「次は、クレープ屋さんに行こう。美味しいところあるんだよ」
「いらない」
「え?」
「――私、食欲ない」
「……わかった、次に来たらね」
 怪訝な色が見え隠れする。散歩先を歩く彼女の背中に、私は先ほどから用意していた言葉を投げた。
「それ、何に使うの」
「え――」
 ゆっくりと振り返る。大きな瞳。憧れだった、私の綺麗な宝石。
「さっき買ってたのネクタイピンでしょ? 高そうなの。何でそんなの買うの」
「――……週末、お父さんの誕生日だから」
「嘘」
 私はおもむろに言葉を遮る。
「先生にあげるんでしょ」
「――何で」
「知ってるよ。昨日見たんだもん。先生に良い子に見られたいんでしょ」
 いっぱいに開かれたその目に、私は矢継ぎ早に言葉を重ねる。心臓は激しく打ち、足元は少し震えていた。真意がわかってしまってからも、本人を前にすれば、やはり失ってしまうことが怖かった。麗は私の初めてを、たくさん知っている。たったの一時期だけでも、彼女は私の神様だった。私は私の世界の中で、今、神様を失おうとしている。
「そのために、嫌々私といるんだよね? 私じゃなくて、先生のに好かれるために。点数を稼ぐために」
 違うよ。
 この期に及んで頭の中にいる、神様の麗が囁く。ああ情けない。麗を睨みながら、私は自己嫌悪で息苦しくなる。どこかでそう言われることを期待しているんだ。違うよ、それは嘘を言っていたの。本当は、先生なんかよりもえりの方がずっと大事よ。私たち、親友でしょ? えりが誰よりも一番大事だよ――
「――そうだよ」
 溜息交じりの返事が、冷たく私の耳に届いた。
「だって、先生困ってたから。えりが浮いてたから。えりのせいでクラスがまとまらないって、先生が私に行って来たの。私を頼って」
 麗はうっとりと目を細めた。
「私、先生が好きなの。それに多分、先生も私が好き。好きになってくれる。だって私、あの人のためなら、何だって出来るもの……あの人といるだけで、凄く呼吸が楽になるの」
「私よりも?」
「当然だよ」
 笑う。私は思わず口を閉ざして、麗が次にいう言葉を待った。腹の中はぐらぐらと煮えていたけど、まだ我慢が出来た。震えないように唇を噛み、拳を握って。
「でも、えりといると楽なのは本当だよ。だってえりって、私の事全部肯定してくれるし。他の子みたいに、妬んだり見下そうとしたりしないし。褒めて物をあげるだけで、気持ち良くなるんだから、えりってほんとに単純だよね。あの小説を読むのは、しんどかったけど」
「――今、何て」