もしも朝、先に目が覚めたら(06)

 握る手のひらに力を込める。じんわりとした熱がそこに灯り、少女の体中に広がっていくのがわかる。手や首、顔まで侵食していた黒い痣は、まるで溶けるように澄み切っていった。目覚める前と同じく身じろぎし、瞼が開き、彼女はうっとりとこちらを見つめる。
「ああ……ローゼッタ……あたし……」
「良かった。もう大丈夫よ」
 少女の頭を撫で、ローゼッタはほっと一息ついた。能力がわかってから二ヶ月。もう何度繰り返してきたかわからないこの儀式も、これで最後だった。街に溢れていた患者の最後の一人だった少女はゆっくりと身を起こし、神に対峙するようにローゼッタを見つめた。この瞬間を見ようと、狭い彼女の家の周りを囲んでいた者たちが、次々に声を上げる。
「これで患者は全ていなくなった……やっと町が元通りになるんだ!」
「我々は病に勝利した! ローゼッタの……いや、聖女様のおかげだ!」
「祭りだ! 祝いの祭りをしよう!」
 この言葉を皮切りに、町人達は早速病が町から滅んだ祝いの準備に取り掛かった。これまで寂れていた商店街には泉の様に人が沸き、賑やかな装飾とふくよかな料理の匂いでたちまちに埋め尽くされていく。ローゼッタとナタリーは町中から一時の休養を言い渡され、久方ぶりのゆっくりとした時間を自宅で過ごした。
「やっと終わったわね、ナタリー」
 ベッドに腰掛け、祭を企てる町の喧騒と明りを見つめながら、ローゼッタは隣にいるナタリーに声を掛けた。
「きゃ!」
「ふふ。有難う、エッタ。貴女がいてくれたから、町は元通りになるわ」
「ううん。――皆が元気になって嬉しいけれど……私はただ、ナタリーの力になりたかっただけなの。貴女を助けたかったから」
「嬉しいわ。そこまで言って貰えるなんて」
 ナタリーはしなやかな指をローゼッタの髪に絡ませ、そのままシーツの上に寝転がせた。蝶が花の蜜を吸うように、首筋に顔を埋める。
「ああ、ナタリー……」
「エッタ……私も、貴女がいて良かった。病が流行りだした時、もうこの町は駄目だと思ったもの……あの時発症しなくても、あのままだったら私はいつか過労死していたわ……」
「私も、そう思う」
 頷くと、ナタリーはまたくすりと笑った。彼女の手のひらはローゼッタの身体をくまなく愛撫し、くすぐったい熱をこちらに染み込ませていった。きっちり一番上まで留めていたブラウスのボタンを、ひとつずつ外しはじめる。
「エッタ……――――ッ!!!!」
 しかし、至福の時はそこで終焉を迎えた。ナタリーは突然息を飲み、密着させていた身体を弾くように離す。その異様な様子に、ローゼッタは怪訝になって上半身を起こした。
「……? どうし……え、」
 視界に――自分の胸元に、恐ろしい色が見えた。
 ナタリーが開けたシャツの中、白い肌に、黒い斑点ができている。
「そんな……! 何で……」
 悲痛な声を上げ、自分の手のひらも見る。斑点はすでにそこも浸食しており――いや、秒単位で拡大しており――白い部分の方が少ないほどにまでなっていた。ナタリーは弾かれたように距離を取り、これまでの甘い時間などなかったかのように絶望的な視線をこちらに向けている。けれど、ローゼッタ自身は彼女以上に言葉も無い。今まで自分自身しか治すことのできなかった病に、自分が掛かってしまった。今までは自分が手を握ることで治癒してきたが、自分自身を直す術などありもしない。
「ナタリー……わ、たし……」
 震える声で、最愛の者の名前を呼んだ。彼女は何か応えたが――それが耳に届く前に、ローゼッタの意識はぶつんと暗闇に消えた。



 また、ノートの上に突っ伏して寝ていた。
 身を起こし、私は時計を探し出して見た。短い針はもう日付を越している。急いで起き出して、お風呂に入るための準備をした。制服さえも着たままで、スカートのプリーツがぐしゃぐしゃになている。夜中に洗濯物を回すと隣の人から苦情が来るから、明日――もう今日だけど――の朝に早く起きてやってしまおう。お風呂はシャワーだけで手早く済ませて軽く頭を拭き、脱衣所に脱ぎ散らかした制服を拾っていると、ポケットから何か小さなものが転がり落ちた。麗から貰った、蝶の絵が入った櫛だ。
 拾おうとして、手が止まる。今日の放課後、麗と先生のあの会話を聞くまでは、世界で一番大事なものだった。だけど今は、これをどう扱おうか迷っている自分がいる。捨てようかとも思ったが、高価そうなものだからそれもちょっと惜しい。
 考え、結局拾い上げてリビングに足を向けると、廊下に光が射していた。どきっとする。だけど、すぐに母だと分かった。ノブをゆっくりと押すと、背中を向けていた母は心底驚いたように肩を震わせた。深夜だと言うのに、真夏の様に露出の高い服を着ている。大きく開いた襟元から、決して健康的とは言えない骨ばった鎖骨が剥き出しになっていた。
「――何? まだ起きてたの? ガキは早く寝なさい」
 電話で男と話している時とは、別人のような声だ。急いで、何かをバッグに隠す。私には見られたくなかったものかもしれないけど、それが薬だろうがコンドームだろうが私にはどうでも良かった。見て見ぬふりのまま、私は久しぶりに見る母の化粧のきつい顔をぼんやりと見る。
「どこ行くの?」
「あんたには関係ないわ」  そう言って、母は「最悪」と呟きながらため息をついた。何が最悪なのだろう。こんな時間に私と会ったことがまずかったのか、それとも私自体が嫌なのか。母は私に投げやりな視線を寄越し、けれど片手に持っていた麗の櫛に目ざとく気付いた。
「その櫛、何? そんな高そうなものどうしたのよ。まさか万引きしたんじゃないでしょうね」
「そ、そんなことしないよ……! 貰ったの」
「なら良いけど。色気づいてるとこ悪いけど、あんたの顔、ほんと見れば見る程父親にそっくり。やんなっちゃう」
 くすんだ金の長い髪を掻き上げ、母はまた大袈裟にため息をついた。
「あんたの顔見るたびに思うわ。生まなきゃ良かったって。そんな顔で、性格も暗くて。どうせ友達もいないんでしょ? 生きてて楽しいのかしらね」
 血が出るかと思うくらい、強く唇を噛んだ。何でこの人に、この女にそんなことを言われなければならないのだろう。私が生まれて十七年、この女はずっと自分のことを被害者だと思ってきたのだろうか。私は私になりたくて生まれてきたわけじゃない。あんたから生まれてきたと言うだけで、自分自身がとても汚く感じる。見えない黒い斑点に、身を侵されている感覚さえあるのに。けれど。
 私は櫛を握る。痛いほど強く。そうだ、どうせ綺麗な人間なんていない。私もこの女も、麗でさえも。合成物で上辺だけ綺麗に塗りたくっても、どうせ中身は汚いままなのだから。
 開けていたと思っていた視界は、ただのまやかしだった。生まれ変わったと思っていたのは、ただの幻想だった。
 それがわかっただけでいい。私は母の目の前を通り過ぎ、何も言わずに自室に戻った。



 目を開けば、そこには闇が広がっていた。
 ローゼッタは首を回す。身体は何か固いものに取り囲まれて、身動きさえも取れなくなっていた。
 ここは――どこ?
 身体を動かそうと思えば、動かせる。ただ狭くてそれが困難なだけだった。その上、ここは湿っぽくて寒い。背を付けている床は硬く、身体のそこら中が痛いし、息苦しくもある。眠っていれば良かったのだろうが、一度起きてしまっては、その酸素の薄さに頭が耐えられなくなってきた。狭い空間の中でローゼッタはもがき、手が伸ばせる範囲で横や上を探る。そうしているうちに、天井が少し軽いことに気が付いた。
 少し力を入れたら開きそうだ。冷たくて硬い天井に両手をつき、思い切り押す。ごご、と重い音がして、少しずつ開いている隙間から、風が出てきた。天井を押し上げても光は這入って来ず、外も夜だということを知る。
 もう少し。更に力を加えれば、天井は至極簡単に外れた。押しながら身を起こし、ローゼッタはやっと外界の空気に自分を晒した。夜だが空には星と満月が出ており、先ほどまでの漆黒の闇とは違う自然の光があった。目を凝らして周りを見る。ここは――
 墓場だ。