もしも朝、先に目が覚めたら(04)

 病の蔓延は、ナタリーが思っていた以上に早かった。
 患者は一日あたり十人を超える。ナタリーが家にいる時間は今や殆ど無く、睡眠時間を削ってまで患者の家に繰り出している日々が続いている。朝の礼拝にも、ここ数日は欠席続きだった。
「ローゼッタ、明日はナタリー来るかなぁ?」
 礼拝を終えた後、一人の少女が声を掛けて来た。病のせいで集う人々は日に日に減ってはいるが、それでも決行されている。今この町では誰もが、神のご加護を欲しているからだ。
「そうね……明日は来れたら良いけど。病気の人が絶えないから、わからないわ」
 頷くと、少女と連れ立っていた老婆が苦々しく口を開いた。
「あれは疫病なのかね。患者は増える一方だ。何が原因で感染しているかもわからない……次に誰がかかるかも。こんなことは、今まで長く生きてきた中でも無かった……」
 その通りである。患者の出る場所は全てバラバラで、家周りの環境や使っている井戸にも関わりが無く、病にかかる直前も患者同士の関わりは見受けられなかった。しかも、予定通りに町に到着していた王都からの調査団からも患者が出てしまい、今は昏睡状態だと言う。蔓延に手の施しようがない。顔馴染の者でも何人かが倒れ、葬式の合図は途切れない。ナタリーだけでなくローゼッタも――町中の人間全員が今、終わりの見えない精神的な疲労を重々しく抱えているのだ。
 少し前までは朝から賑わっていた商店街は、閑散と寂れてしまった。冷たい空気の中には子供の声も立たず、皮肉の様に晴れている空がとても重く感じる。いつもならナタリーと買い物がてらに歩く道。悪戯好きの少年がナタリーの背を押し、果物屋の店主が林檎を分けてくれ、いつもどこかで音楽が鳴っている。そんな光景が、まるで夢だったかのように思えた。
 空虚な気持ちを抱えたまま足早に帰宅すると、鍵を掛けて出たはずの扉が開いていた。鍵を指してないのにノブが回り、ローゼッタの心臓は一瞬ひやりとする。しかし玄関の定位置にナタリーの道具入れが見え、ほっと胸をなでおろした。
「ナタリー?」
 夜明け前に町人に呼ばれて飛び出していったが、こちらが外出している間に帰宅したらしい。しかしローゼッタが名を呼ぶ声は静寂に溶け、ナタリーの気配は空気が凍っているかのように希薄だった。
――おかしい。
 嫌な予感がする。弾かれたように彼女の部屋に行くと、案の定、ベッドサイドの床に倒れている彼女の長身の身体を見つけた。
「ナタリー! ナタリー……!」
 ぐったりと脱力した彼女の肩を激しく揺する。その拍子に首筋に黒い斑点が見え、ローゼッタは背の血の気が引いていくのを感じた。
やはり――ナタリーも、この病にかかってしまった。
「いや……ナタリー、そんな……」
 ローゼッタは声も失った。しかし、これほど患者と会っていたら、いつの日か掛かってしまうだろうとも思っていたのだ。眠ったような様子と黒い斑点。他の患者と同じとすれば、ナタリーは明日には死んでしまうだろう。
「だめよ……死んじゃだめよ。絶対に……」
 ローゼッタは泣き、彼女の手を握り締めた。涙は次から次に溢れ、床に、彼女のシャツの上に透明な染みを作る。両親を亡くし、義理の父も失くし、ナタリーさえも失くしてしまうのか。ただただ絶望し、ローゼッタは何度も彼女の名前を呼ぶ。
 しかし――その時、奇跡が起こった。
「――…………ローゼッタ?」
 その掠れた声に、ローゼッタは耳を疑った。抱きかかえていたナタリーの上半身が、ゆっくりと動く。
「ナタリー?」
「……どうしたのよ、泣いて……。びっくりするじゃない」
 びっくりしたのはこちらだ。ローゼッタは目を見張り、何事も無かったかのように起き出した唯一の家族を眺める。ナタリーの様子は寝起きそのもので、斑点も消えていた。ローゼッタは彼女から腕を離し、震える声で呟く。
「ナタリー、だって今、貴女……病に……」
 嬉しさよりも、困惑の方が大きい。ローゼッタは順を追って、一瞬前のナタリーの状態を彼女自身に知らせた。 「何ですって――今まで、何を試しても歯が立たなかったのに……」
 彼女も驚き、そして考え込む。自分が生き返った喜びよりも、何故治ったのかという疑問の方が強いようだった。しばらく口の中で何かを呟いた後、彼女は不意にこちらを見つめた。
「もしかしてローゼッタ、貴女に、原因があるのかも……」
「え――」
 合点がいかず、ローゼッタは唖然と捨て彼女の目を見つめ返した。
「私も、切羽詰ってるって自分でも思う――けど、今の状況を見たら、そうとしか考えられない。貴女に治癒の力があるんじゃないかしら。ねぇ、試してみない?」
 そう言うナタリーの顔は、真剣そのものだ。そんな彼女に真摯にこう伝えられては、信じられなくもあるが、それが本当の事のように思えてきた。
確証はない。けれど、やってみる価値はあるだろう。おそるおそる、けれど力を込めて、ローゼッタは頷いた。



 思っていた以上に遅くなってしまった。
 階段を駆け上がる。毎月恒例の委員会はいつも以上に長引いて、一日雨降りなせいもあるけど、廊下はもうすでに薄暗くなっていた。だから、風紀委員なんて嫌だったんだ。朝は早く登校して校門に立たなきゃいけないし、こうして帰りも遅い。クラスで立候補が出ずに押し付けられ、断りきれなかった自分が情けない。階段を上り終えて呼吸を整え、私は歩調を緩めて荷物を置く教室へと向かう。委員会が始まる前に、「教室で待ってる」って麗が言っていたけど、かなり遅くなってしまった。怒ってないかな――なんて考えながら角を曲がり、私は教室に入ろうとして、
「それ、どういう意味よ!!」
 響いた大声に、私は足を止めた。唾を飲んで教室を見やる。
「別に……他に意味なんてないよ。思った通りのことを言っただけ」
 麗と、クラスの目立つ女の子たちが対峙していた。この前、昇降口で麗の陰口を言っていた子たちだ。石川さんが一歩前に出て、目を伏せた麗に詰め寄る。
「思った通りの事? 麗、あんた私らのこと馬鹿にしてるでしょ。そうやって、自分は他よりも冷めていてオトナですよって顔して。私、あんたのそういう所前から大嫌いなんだけど」
 吐き捨てるように言う。麗は黙って聞いているけど、唇を噛みしめているのが横からでもよく分かった。
「あんたみたいに腹黒い奴、他にいないよ。最近高野と仲良くしてるけどわかるんだからね。あんたはあいつを利用してるだけなんでしょ?」
 酷い。麗がどんなに苦しんでいるのか、何も知らないくせに。何でそんなことを言うの? 何で、あんたがそんなことを言うのよ。
「それは――」
「やめてよ!」
 何か反論しかけていた麗の声に被さって、私は叫んでいた。麗も、クラスメイトの女の子たちも驚いてこちらを見る。
「何でそんなこと言うの? 麗はそんなことしないんだから!」
「えり、」
 麗が弱々しく呟いた。それを見て、石川さんが鼻で笑った。
「……は」
 呆れたように肩を脱力させ、他の子に目配せして身を翻した。
「馬鹿みたい。もういいわ。行こ」
 私には視線さえもくれない。それでも、教室を出ていく石川さんたちと入れ違いに麗の元に駆け寄った。
「大丈夫?」
「うん――平気だよ。ごめんね」
 そう言って、麗は笑う。何で今みたいなことになったのか、聞きたかったけどやめておいた。詮索して答えて貰っても、こちらが上手く反応できないような気がしたから。だけど、麗を助けられてよかった。
「えり、また髪解けてる。走ってきたの?」
「遅くなっちゃったから……」
「そんなの気にしなくて良いのに。ほら、直してあげる」
「い、良いよ。もう帰るだけだし、雨降ってるし」
「そう? じゃあ、この櫛あげる」
 言いながら、麗はポケットから小ぶりな櫛を取り出した。
「良いの?」
 その櫛は、うちにあるような安っぽい大量生産の物とは違う。つやつやの黒い漆塗りで、握る部分に赤い蝶の絵が書いてある。小さめだけど、高価そうな代物だ。麗が持つととても似合うけど、私が持ったって猫に小判なような気がする。
「良いよ。私、髪弄る小物はいっぱい持ってるから」
 麗は笑った。
「ありがとう……!」
 櫛を握りしめ、私は小さく言った。
 嬉しい。凄く凄く嬉しい。こうやって誰かから何かを貰うことなんて、記憶にないほどに無かったから。胸がいっぱいになって苦しい。何から何まで、麗は私の初めての人だと思う。髪や体に触ってくれたのも、小説を読んでくれたのも。ここまで仲良くなれたのも、全部全部麗が初めてだ。麗のおかげで、私は今ここにいていいんだって気がしている。麗が、私を救ってくれたんだ。
 麗のことが好き。だから、麗のためなら何でもする。