もしも朝、先に目が覚めたら(03)

「また……?」
 綺麗な眉をひそめ、ローゼッタは呟く。居間のソファに腰かけて朝刊を見つめ、可愛らしい口元でため息をついた。長い昏睡状態の末、消え入るように死亡。患者の皮膚には黒い斑点が浮き出、徐々に広がっていく。硫黄のような悪臭が立ち、四肢の先は水を吸ったかのようにぶよぶよに膨張する。
「ね――この前のシンシアのお母さんと一緒じゃない? 実際に見てないから、わからないけど……疫病じゃないかしら、怖いわ……」
 記事になっているのは、ここから馬車で一時間ほど離れた隣町での出来事だった。
「そうねぇ……疫病。そう思っても良いかもしれないわね」
 銀の盆にティーカップを二つ乗せ、ナタリーがこちらに寄ってきた。彼女の口調は思いのほかのんびりとしている。ローゼッタは反射的に隣に腰かける彼女を振り返った。
「ナタリー、そんな悠長に」
「焦っても仕方ないもの。……今の地点では、原因も何もわからないんだから。王都の方に調査隊を依頼したけれど、この町に来るまでにあと四日はかかるんだから。それまでは、できることを精一杯するしかない」
 ナタリーが町長はじめとする町の役人にこの病気を知らせたのは、三人目の患者が出た時だった。
 彼女の言うとおり、王都からこの田舎町までは片道で数日を要するほどの距離がある。ナタリーの様に学のある人間ですら数が少なく、今町人たちは得体の知れない病に震えあがっている。温かいカップを手渡され、ローゼッタは少しだけ口に含んだ。ナタリーの淹れる紅茶はいつも少し濃い。その苦い味が身体の芯を通っていくのを感じながら、ローゼッタは俯いて深紅の水面に映る自分の顔を見た。
「ローゼッタ」
 そんなこちらの表情を見かねたのだろう。ハスキーなその声で名前を呼び、ナタリーの長い指がこちらのプラチナブロンドの髪を撫でた。
「おいで?」
 その仕草の何と甘美なこと。蜜に惹かれる蝶の様に、ローゼッタはテーブルにカップを置き、殆ど自然に彼女の腕へと吸い寄せられた。
「ふふ」
 耳元で甘い笑い声がする。ローゼッタは彼女の鎖骨に顔を埋め、彼女の手はローゼッタの腰に回された。するすると這いまわるその手つき、まさしく愛撫であった。
「やだ、ナタリーったら……」
「やだって言いながら来てるじゃない。素直じゃないのねぇ、エッタ」
 その愛称は、こうして二人でいる時にしか使わない。ナタリーは少し笑ったが、その目は完全に疲弊していた。同じ病は、この町でもじわじわと患者を増やしている。それに、元々医師が少ない。誰かが倒れる度に駆けつけなければならないことを思えば、ナタリーの疲労は当然のことだった。
「ナタリー、あまり無理しないでね。あなたまで病にかかったら、私……」
「何心配してるの。平気よ……何も心配しないで。私は絶対、あんな病にかかったりはしないわ」
 ナタリーはまた口の端で笑った。そして、ゆっくりと目を閉じる。ローゼッタ自身も微動だにせず、ただ彼女が癒されていくのを待った。



「麗ってさ、最近付き合い悪くない?」
 昇降口の方から、尖った声が聞こえてきた。
 不意に肩が硬直してしまった。クラスでも目立つ方の、石川さんの声。終わりのHRの後に宮澤さんと図書室に寄っていたのもあって、誰とも被らないと思っていた時間帯。立ち止まり、私は身を縮めるようにして靴箱の影に寄った。その気配は一人ではなく、続いて別の声が上がった。
「だよね、ずっと高野と一緒にいる。あれ何で?」
「さぁ。引き立て役に選んでるのかもね。私だったら、それでも高野なんて絶対嫌だけど」
「ねぇ。麗、あれで正義ぶってんじゃない? ぼっちの可哀想な奴の相手してる私スゴイ! みたいな」
「かも。麗って、そういうとこあるよね。優等生ぶってるよね」
 きゃはは。笑い声が玄関全体に響き、足音は外に捌けていった。まただ。「お菓子が美味しい」とか「猫が可愛い」みたいな軽さで、あの子たちはクラスメイトの悪口を言う。しかも私はともかく、宮澤さんなんてこの前まで仲良くしていたのに。
 確かに宮澤さんは最近私ともよくいるようになったけど、教室ではあの子たちとも普通に話している。影ではこんな風に悪く言っているのに、仲が良い振りをしているんだ。
 私は、つい後ろを振り返った。
「……あんなこと言われてるけど」
「うーん」
 ずっと私と一緒にいて、ばっちり今の会話も聞いていた宮澤さんが薄い唇をへの字にした。コミカルな表情のまま少し考え、大きな瞳をぱちりと一回瞬かせる。
「えりも、そう思う?」
「え、」
 えり。宮澤さんは、いつの間にか私のことを下の名前で呼ぶようになっていた。私のこの何の変哲もない名前は、今や同居人である母親にさえも久しく呼ばれていない。聞かれた内容とその呼び方に私は完全にたじろいで、彼女の視線から懸命に目を逸らした。
「お――思わない、けど」
「じゃあ、良いよ」
 こちらの近況に反して、宮澤さんはけろっと答えた。私を追い越して、自分の靴箱の方へと向かう。
「あの子たちも、ああいう風に言うけど、性格全部が悪いわけじゃないんだよね。だけどなんていうか、疲れちゃって」
 ローファーの踵をこつこつと鳴らし、ふ、と軽い溜息をついた。長い髪が肩から落ちて蝶の羽みたいに広がる。そうする宮澤さんの横顔はとっても大人っぽくて、同じ高校生なんかにはまるで見えなかった。見惚れている私を尻目に、後ろで手を組んで、そのまま華やかな睫毛に縁どられた眼を眩しげに細める。
「……宮澤さん?」
 宮澤さんの視線の先を見る。けれど、そこには何もない。部活途中の校舎は人がまばらで静かだし、強いて言うなら、隣の校舎の二階の廊下を、丁度担任の先生が横切っているくらい。何の変哲もない光景を、宮澤さんは息を潜めるようにして静かに眺めている。
「ううん――」
 少し怪訝な私の声に、小さく首を振る。
「時々、私だけ別の空気を吸ってるような気分になるの。他の子は皆酸素を吸ってるのに、私はもっと別の、酸素よりももっと薄い気体を吸ってるような感じ」
 言いながらも、表情は欠片も苦しそうじゃない。視線の先にはただ校舎があるだけなのに、世界のはしっこに来たみたいに遠い目をしていた。私は思う。それは、宮澤さんが周りとは違う生き物だからじゃないだろうか。綺麗な水の中でしか生きられない魚がいるように、宮澤さんも本当はここで生きてはいけないものなんだろう。 有り得ない妄想なのに、何故だかしっくりと合点がいった。宮澤さんは、もう私の中では神様や天使と同じ扱いになっていたから。誰よりも心も外見も綺麗なのに、他の汚い女の子たちと同じ空気を吸っているはずないんだ。さっきの癖だってそう。天使が空の上に故郷を見るようなもので、だからあんなに、芸術品みたいに様になっていたんだと思う。
私なんかが近くにいていいのだろうか。不安になりながらも、私は何処か誇らしい。こんなに素敵な宮澤さんが、一番の友達に私を選んでくれたんだから。
けれど、宮澤さんはすぐに元の顔に戻り、鞄から何かを取り出した。昼休みに貸した、私の小説のノートだ。
「そうそう。えり、小説読んだよ」
「は、早いね」
「実は、授業中にこっそり読んでたの。町はどうなるのかな。続き気になるよ」
 言われて、こちらがびっくりした。
「ありがとう……!」
 私が書いたものが、続きを待たれている。一人で書いて満足していた時からでは、想像もできなかったことだ。嬉しい。
「ほんと凄いと思う。私いつもは小説とか全然読まないけど、一気に読んじゃったよ。続き楽しみにしてるね」
「うん」
 頷くと、宮澤さんはまた笑った。そうして、私の肩にとんと触れた。どきどきする。他人から触れられることなんて、私には殆ど無いのだから。
「えりと一緒にいると、なんだか、楽だなぁ。落ち着く。私のこともね、麗って呼んでいいよ」