もしも朝、先に目が覚めたら(02)

 鏡に映る自分の顔を見つめて、私は溜息をつく。
 生まれてから今に至るまで、きっと一億回はついているはずだ。癖が強く艶の無い髪は固く結んでも対処できず、朝苦戦して収めた三つ編みも、こうして昼休みには縮れてしまう。今みたいにトイレの鏡に向かって悩むのが、半ば日課になっている。解いて直そうか。けれど、もう昼休みは半分を過ぎてしまった。優柔不断なのは私の良くない所で、うじうじ悩んだままタイムオーバーになってしまうことは溜息の次ぐらいに多い。鏡の前でじっと逡巡していると、個室の方で次々に水が流れる音がした。同じクラスの女の子が、二人、出て来て私を一瞥する。
「ちょっと、邪魔なんだけど」
「ご、ごめんなさい」
「高野さんってさ、トイレ好き? 昼休みいっつもいるよね」
 くすくす笑いながら、彼女たちは手を洗い、身だしなみを整えて出ていく。私は隅っこでじっと待ち、嵐が過ぎるのを待っていたけれど、ドアの外から聞こえよがしに話しているのが耳に入った。
「きもいよね、何してるんだろ」
「さぁ? 好きなんじゃない。ここ。教室にも居場所ないしね」
「あはは! ほんとに」
 鏡の中の私が、口をぎゅっと結んで俯いた。別に、好きでここにいるわけじゃないのに。ほんとは私だって、昼休みはもっと自由にしたい。だけど、コンプレックスに負けてしまう。自分の嫌なところを誤魔化したい心の方が強くて、制御が効かなくなってるんだ。
 もう誰も来ないことを祈りながら、どうにか時間一杯足掻こうと髪を弄る。
「どうしたの?」
「うわっ!?」
 声を掛けられ、露骨に驚いてしまった。いつの間にか、前の席の彼女――宮澤麗さんが後ろに立っていて、鏡越しに私と目が合う。
「えっ、えっと……」
 ばっちり映っているのに、どうして気が付かなかったんだろう。狼狽えて振り向いたけれど、宮澤さんはそんな私のリアクションなんて気にするふうも無く続けた。
「髪、ほどけちゃった?」
「あ……そういうわけじゃないんだけど、ぐちゃぐちゃだから……」
「ふぅん?」
 まじまじと私の髪を見る宮澤さん。おっきくてキラキラした目が、私を見る。私を。
「私が直してあげようか?」
「い、いいよ。昼休み無くなっちゃう」
 心臓がばくばくしている。宮澤さんは私よりもずっと背が高くて、細くて、スタイルだって良い。それに美人だ。女子にも男子にも友達がたくさんいて、ヒエラルキー最下層の私が、髪を直してもらうなんて畏れ多すぎること。  でも何でだろう、宮澤さんにとって、私は後ろの席の暗いやつ程度の認識だと思っていたのに、この前から少しずつ話しかけてくれている。狐につままれているみたいだ。
「平気だよ。私もトイレじゃなくて、髪直しに来たの。ほら」
 けれど、宮澤さんはあっさりと持っていたポーチから折り畳みの櫛を取り出した。そして、手のひらを私の方に向ける。何故だか楽しそうな、悪戯っぽい、少年みたいな笑顔を作って。
「おいで?」
 こっそり唾を飲んで、私は頷いた。
 宮澤さんの手が、私の髪を梳かしていく。指は少し長めで、慣れているのか手つきは優しかった。私の髪は一本一本が太くて硬くて、自分で櫛を入れると絡まってばかりで嫌になる。けれど宮澤さんの手だと、絡まったり切れたりすることが無くてとても不思議だった。
「あの、宮澤さん」
「あ、痛い?」
「痛くないよ。上手いなぁって、思って」
「そう? ありがと〜! 私、美容師になりたいの。行きたい専門も決まってるし。親は大学に行けって言ってるけど」
 意外だった。宮澤さんは、成績も良いから。てっきり四年大学を希望しているのかと思っていた。
「そうなんだ」
「高野さんは、進路決まってる?」
「え、ええと」
「って、こんな大事なことさらっと言えないか。無理して答えなくていいよ」
 そう言いながら、宮澤さんは私の髪を綺麗に編み込んでいく。自分では絶対にできないような整った模様が作られていくのを、私は鏡越しに見た。
「――ううん。私、学校は決めてないんだけど、……ぶ、文学部に行きたいなって思ってて」
「へぇぇ、良いじゃん。先生とかになるの?」
 私は腿で手を組んで、宮澤さんから見えないようにもじもじと指を弄る。
「うん……あのさ、宮澤さん」
「ん?」
「この前の、ノートね。絵じゃないんだけど……後で、見る?」
「え! 良いの?」
 髪を弄って貰っているのに、私は小さく頷いた。
「わ、笑わないでね?」
「笑わないよ! ありがと。楽しみにしてるね」
 鏡越しに、また笑った宮澤さんが見れた。恥ずかしいけど、今の状態では俯けない。私も笑った方が良いんだろうか――と思ったけれど、その試みは授業五分前のチャイムに掻き消された。

「そう! そうなのぉ。私、ちょっと忙しくってぇ。――やだぁ。大丈夫よ。忘れないってぇ――うんうん。すぐに電話するから、迎えに来て? ねぇ――子供? へーきよぉ――うん、そぉ。アハハ!」
 耳障りな笑い声が聞こえ、私は胡乱に起き出した。勉強机に突っ伏して、いつの間にか寝ていたみたいだ。暗い部屋に付けっぱなしのスタンドライトの光に目を刺され、ぱちぱちと瞬きをくりかえした。話している内容はわからないが、電話の声はまだ続いている。甲高く繕われたその声は生理的に気持ち悪くて、私はもう一度突っ伏して耳を塞いだ。
 きっと、男と話をしているんだろう。高校生にもなる子供を持った女が、男に取り入ろうとする様なんて親じゃなくても不快だ。今でこそ無いけれど、昔はそのことで良く苛められた。父親がいないとか、誰の子かもわからないとか。そんな自分ではどうしようもないことで苛められる私の気持ちなんて、あの女は一ミリだってわかりはしないだろう。
 それに、私だって汚らわしい。顔も声も知らない、今何処に居るかもわからない、女に子を孕ませて逃げるような男が父親だなんて、死にたくなるほど恥ずかしいのに。こんなこと、宮澤さんに言えば嫌われてしまうんじゃないだろうか。あんなに綺麗で明るくて優しい彼女に、私がこんなに汚い人間だということは口がひっくり返ったって言えない。
 あれから、放課後になるのを待ってこっそりとノートを見せた。昨日みたいに他のクラスメイトに誘われるのを断って、宮澤さんは私に合わせて教室に残ってくれたのだ。
あのノート。断片的だったり、未完の物ばかりだけど、少しずつ書いてきた自作の小説や詩達。これを自分以外の人に見せたのは、宮澤さんが初めてだった。
 教室の窓は北向きだから、夕日は斜め向きに差し込んでいる。整った横顔に朱色の光を受け、宮澤さんはノートを一枚一枚じっくりと読んでいて、私は目線のやり場に困ってずっと俯いていた。文章から目を離さずに、宮澤さんは言う。
「高野さん、小説家になりたいんだ」
「うん……なりたい、というか、なれればって感じだけど」
「良いね! なりたいって思うの大事だよ。もっと胸張っても良いと思う」
「そうかな……」
「そうだよ。もっと積極的に……ってわけじゃないけど、隠さなくても良いんじゃないかな。私が思うに、高野さんはちょっと引っ込み思案すぎる気がする。折角上手なんだから、もっと自信持とう?」
 宮澤さんは顔を上げ、綺麗な顔を傾げてそう言った。また、私の顔を覗き込んでくる。くっきりとした二重。長い睫毛。それから――
 がたん、と引き戸が閉まる音がして、私は現実に引き戻される。窓の外を見れば、西日は完全に沈んでしまっていた。七時過ぎ、しんと静まり返るアパートの隅。私は自室から出て、台所に向かった。古くてニスの剥げたテーブルの上に、千円札が一枚乗っている。
 夕食はこれで賄って。脳内で、もう長い間私に宛てて発されたことのない、変に作られた甲高い声が再生された。私はそれを手に取り、ほんの数分前までここにいたあの女の残り香に顔をしかめる。きつい香水で誤魔化されたこの女の親としての情は、きっと一枚の紙幣よりも軽いのだろう。
 唇を噛みしめ、私は最寄りにあるスーパーに行くため玄関へと向かった。ソールがすり減ったスニーカー越しに、冷たいコンクリートの土間の感触がする。帰ってご飯を食べ終えたら、読み返そう。今まで自分だけのために書いていたから気付けなかったけど、誰かに読まれると思うと、やっぱり気を遣ってしまう。難しい。私だけが書いていて気持ちいいだけじゃなくて、宮澤さんのことも考えなくちゃ。
 夜を迎えている外界に、私は一歩足を踏み入れた。まだそんなに遅くないのに、辺りはしんと静まり返っている。独りきり。少し心細くて、私は気を紛らわせるために、もう一度宮澤さんのことを考えた。
――高野さん、小説家になりたいんだ
 小説家になりたい。確かに、その気持ちは実は少しだけある。お話を考えるのも、登場人物を頭の中で話させるのも好きだ。これをずっと続けていけたら、なんて幸せなんだろうと思う。
 現実の自分がどれだけ汚かろうが、醜かろうが、嫌われようが、頭の中にはいつも綺麗な世界が広がっていた。主人公は勿論みんな女の子で、きらきら輝く髪と白い肌、長い睫毛に縁どられた大きな瞳を持ち、可愛らしい声で上手に歌い、特別な力を持っている。それに皆不幸な生い立ちを持っているけれど明るく前向きで、誰かに愛されて暮らす。お話自体はいくつか考えたけれど、そこだけは絶対に変わらなかった。
 小説を書くのは、楽しい。私には何にも無いけど、唯一好きなことだと思う。今まで声に出したことは無かったけれど、今日、宮澤さんのおかげで分かったような気がする。
 私は走った。夜の中を、ただひたすらに。

(もしも朝、先に目が覚めたら--FIN.)
※続きは同人誌『La reprise』にて読むことができます。