もしも朝、先に目が覚めたら(01)

 朝の光が窓から射しこみ、少女の白い肌を透かした。
 窓辺で小鳥が鳴いている。それに名を呼ばれた気がして、彼女はふっと瞼を開いた。美しい蒼い瞳に朝の情景を映し、ゆっくりと上体を起こすと、小鳥たちはまた鳴きながら飛び去って行った。まだ眠気のあるうつろな動きで、淡いプラチナブロンドの髪を右肩に束ねる。
 亡き母から譲り受けたこの髪の色は、少女にとっては自慢だった。陽の光を帯びれば絹のようにそれはそれは綺麗な艶を湛え、誰もが羨んで見つめた。父は生まれる前に戦死し、母も幼い頃に病で倒れ――そんな不幸な過去を背負う彼女も、この髪、更に言うなればこの容姿のおかげで、人々に疎まれることは今までを振り返っても殆ど無い。それは、とても幸福なことであった。
 コンコン、と木造りのドアがノックされる。そのまま静かに開かれ、見慣れた涼し気な顔が現れた。町医者という職業柄白いブラウスに黒のロングスカートを合わせているが、彼女はどちらかといえば男勝りな、活発そうな目鼻立ちをしている。短めに切った黒髪も、その雰囲気によく似合っている。その健康的な口元が、少女の名前の形に開かれた。
「ローゼッタ、起きてる?」
 それが、少女の名前だ。
「ええ、おはよう。ナタリー」
 ベッドに腰掛けたまま彼女――ナタリーに返事をし、ローゼッタはゆっくりと寝床から降りる。クローゼットの中から紺色のワンピースを選んだ。
「顔色が良いわ。今日は調子が良さそうね」
「そうかしら。でもね、素敵な夢を見たの。お母様がいた頃の夢よ。そして、貴女も」
「へぇ。それでそんなにご機嫌なら、私も嬉しいわ」
 ナタリーも微笑む。窓辺には再度小鳥が現れ、二人に向かって美しい声で鳴いた。
 町医者だった彼女の父親が孤児となったローゼッタを引き取り、これまで姉妹のようにして育ってきた。ナタリー自身も、赤子の頃の戦火で母親を亡くしていたからか、境遇の近いローゼッタには情が沸いたのだろう。彼女は幼い頃から、ローゼッタの姉であり母であり、同時に親友のように常に共にいた。その上男手ひとつで二人を育てていた父親も、数年前に亡くなってしまい、二人はお互いが唯一の家族だった。

  ◇

 さらさらの長い髪が、好きだと思った。
 彼女が少しでも動く度に、反射した蛍光灯の光が形を変える。まるで綺麗にカットされた宝石のようだ。真っ黒なのに重苦しくなくて、手で梳けばするりとほどけていきそうな髪。授業中だというのに頬杖をついて、集中しているというよりかは、ぼんやりと黒板を見ているようだった。
 授業をしている限り、私にはこうして後姿しか見ることができない。席替えをして二週間ほどが経つけど、まだちゃんとした会話もしていないのだ。私はいつの間にか、文を書く手を止めて彼女の髪に見惚れていた。先生が振り向いて、何かを言う。誰かを当てようとして教室を見回し、不意に私の方を見た。
 ぎくりとした。私は咄嗟に、授業用のノートの下に広げていた別のノートをスライドさせて見えなくする。けれどその拍子に、腕が仕えてペンケースが落ちてしまった。カシャン、という音が静かな教室に響く。斜め後ろで、誰かが噴き出す声が聞こえた。先生は首を傾げ、
「どうしたの、高野さん」
「――すみません」
 後ろでくすくす笑いが尾を引いている。私は急いで床に散らばったペンを集め、すぐさま席に戻る。一応私を待ってくれていたのか、先生は軽く息をついて授業を再開した。
「じゃあ読んでくれるかな。宮澤さん」
「はい」
 前の席の彼女が立ち上がる。髪が揺れ、女子にしては低めのその声が上手に英語の文章を朗読していく。私は少しだけほっとして、彼女の声を聞きながら今どの場所をやっているのかと教科書の文を追う。
 けれど、背後で笑っている気配はまだ続いている気がした。私は身を縮め、シャーペンを持つ手に力を入れる。引っ込めた下のノートを再び出すことはせずに、そのまま俯いて板書した文字のみを見つめた。

「タイミング悪かったね」
 授業終了のチャイムが鳴ったと同時に掛けられた声に、私は弾かれたように伏せていた目を開けた。そこでは、彼女がこちらを向いて笑っている。背中ではなく、ちゃんと正面を向いて、私に話しかけているのだ。
「え……」
 夢のような出来事に、私はすぐには反応できなかった。
「私もよく内職してるから、ドキッとしちゃった」
「内職?」
「そそ。あ、違ったらごめん。私集中力ないからさー、ついつい落書きとかしちゃうんだよね」
 彼女は悪戯っぽく笑う。他の女子みたいに化粧なんてしてなさそうなのに、睫毛がくっきりとしていて綺麗だった。
「高野さんも何か描いてるんでしょ。絵とか上手そうだもんね」
 近からず遠からずなことを言い当てられ、私は尻込みした。英語のノートと重ねて机の上に出しっぱなしにしていた、水色のキャンパスノートをきゅっと握る。
「そのノート?」
「これは……」
 見せられない。誰にも見せた事なんてないのに。
「麗(うらら)ー、行こう」
 どう返したら良いかわからずにどもっていると、後ろから他のクラスメイトが彼女に声を掛けた。彼女と仲が良いグループの女子だけど、私はあまり話したことが無いし、影で笑っているかもしれない。
「はぁい。――また気が向いたら見せてね」
 彼女は振り向いて返事をした後、こちらに目配せしてそう言った。驚いて固まってしまう。こんなことを言われるなんて、思ってもいなかったから。
「う、うん――わかった」
 私が返事をした時には、彼女はすでにクラスメイトの元へと言ってしまっていた。でも、私はそのさらさらと煌めく髪を見えなくなるまでずっと見つめ続けていた。

  ◇

 オルガンの音に乗り、澄んだ歌声が小さな聖堂に満ちる。
 天井から降り注ぐ光の中に立ち、ローゼッタは一音一音を優美に歌い上げていく。これは小さい頃から歌い続けている讃美歌で、まるで血潮の様に体に染みついているものだった。礼拝堂のシスターが弾くパイプオルガンの音は優しく、また時に大胆に、それでも歌声の邪魔をすること無く寄り添っている。歌パートが終わり、オルガンの最後の音が空中に溶け、清らかな静寂が落ちる。一瞬の間の後、座って聞いていた町の者たちが、一斉に拍手を送った。
「やっぱりローゼッタの歌は最高ね!」
「そんな、それほどじゃないわ」
「またまたそんな謙遜して。ほんと、心が洗われるみたいだわ」
「また聞かせてね!」
 皆が口々に言い合う。朝の礼拝の後にせがまれ、そのまま一人で歌うことになったのだ。ローゼッタの歌は実際とても上手く、噂を聞きつけて、町の外からも人が効きに来るほどだった。皆に囲まれるローゼッタを見守りながら、並べられた椅子の後方でナタリーも拍手を送っている。目配せをすると、可笑しそうに目を細めた。朝の礼拝に参加するのは、二人の昔からの日課なのだ。
 いつもどおりに礼拝が終わるころ、ローゼッタとナタリーが散り散りに帰っていく皆を見送っていると、一人の少女がおずおずと近づいてきた。町でパン屋を営む家の、十三歳になる娘だった。いつもは働き者で明るく、良く笑うのに、この時ばかりはいつになく暗く沈んだ表情をしている。
「ナタリー、ちょっといい……?」
「――どうしたの、シンシア」
 一目見ただけで心配になる程、彼女の顔は青ざめていた。俯き、今にも泣きそうに唇を震わせている。
「お母さんが、起きないの」
「え?」
「どういうこと……?」
 二人は顔を見合わせる。シンシアは胸で手を握り締めながら、ぽつぽつと続きを語り始めた。
「昨日の昼に倒れて、全然起きないの……夢を見ているみたいで、うなされてるのに、どれだけ揺すっても声を掛けても、起きなくて……それに、肌に、黒い模様が」
「模様?」
 ナタリーが怪訝な顔をした。そして考え込む。自分が知っている病に、そういったものはあっただろうか――という顔だ。
「お母さん、どうなっちゃうのかな……」
「大丈夫よ。すぐに看るわ。帰って道具を持って来るから、先に家で待っていて」
 少女の肩を抱いて優しく囁き、ナタリーはそっとその背を押した。頷いて足早に去っていく彼女を見つめ、ローゼッタは呟いた。
「大丈夫かしら、ナタリー……」
「大丈夫……と言いたいところだけど、わからない。私の知識にはない症状だもの」
「そんな」
「でも、行ってみなくちゃわからない。とにかく一旦帰りましょう。行ってる間、留守番宜しくね」
「ええ……」
 得も言われぬ不安が胸に覚えながら、ローゼッタは小さく頷いた。得体の知れない物が潜んでいる。何か、良くないことが起こりそうな気がする。けれど、ローゼッタはそのことを口には出さない。出してしまえば、現実になってしまいそうな気がしたからだ。ただ胸で手を握り、シンシアの家へと向かうナタリーの姿を見送った。――けれど、

 シンシアの母親の訃報が届いたのは、その日の晩の事だった。