ディスタンス、濡れ落ちる花(02)

 梶は去年同じクラスだった。最初は優等生だったのに、途中校内で問題を起こしてから、他の生徒から距離を取っている。無口で無愛想で話したことも無いし、私なんかからしたらちょっと怖い部類なのだけど、夕妃は彼のことをとても優しいと言う。
「あ――」
 夕妃が溜息に似た声を零した。八木先生と冗談でも言い合っているのだろうか。カーテンの隙間で、珍しく梶が笑っている。意識をしているのかしていないのか、夕妃が淡く唇を噛んだ。
 大きな目が急速に潤んできて、すぐにでも泣き出しそうになる。酷く悲しげに顔を歪め、私なんかを見ることも無い。身体はここにあるのに、気持ちは準備室に飛んでいるのだ。対して、一番近くにいるはずの私は何もできない。この時には細心の注意が必要で、声をかけるのはもちろん、先を急かすなんてもっての外だ。もしそんな野暮なことをしてしまえば、夕妃は間違いなく世界が終わったかのような更に切なそうな顔をするだろう。結局いつも私はその表情に負け、気が済むのをじっと辛抱強く待つことになる。
 梶を見つめている時の夕妃は、とても綺麗だ。純度一〇〇パーセントの清らかな「好き」な気持ちが、身体中に満ちている。
 これは、他の子が自分を気に入って貰えるように軽く口にする「好き」とは全く別のものだ。夕妃が梶に持つ「好き」は恋という名前で、身体から出れば涙になる。今夕妃の目を潤ませている涙は、夕妃が梶へ持つ恋の形そのものなのだ。
 この恋というものが引き起こす症状を、私は夕妃から教えて貰った。恋がどんなもので、どんな症状を起こし、どんな変化をもたらすのか。本来なら教育されることの無いことを、私たちは秘密で共有し合っている。誰かを好きになると胸が苦しくて切なくてどうしようもなくなるし、想えば想う程に泣きたくなる。その人のことしか考えられなくなり、触れたいし触れて欲しいという欲求不満が続く。自分以外の誰かと話しているのを見るのさえ辛いのだ。そして、この苦しみを知って欲しいのに知られたくない矛盾にも悩む。救われるには、相手に気持ちを受け容れて貰うしかないという。
 夕妃と仲良くなる前の私だったら、こんなのただの創作話だと思ったに違いない。私が生まれるくらいの時に法律が改正され、未成年に対する恋愛や性に関する表現に厳しい規制がかかった。交際や結婚は成人するまで法的に認められず、良い大学に行き、良い職業に就くための勉強なら嘔吐(えず)くほどにさせられるのに、人を好きになるということについての知識は私たちには殆ど施されない。映画や本といったものでも、恋愛の描写があるものは未成年が見てはいけないものに指定されている。一般的な感覚でも、未成年が恋をすることは罪なのだ。
 じっと梶を見つめる夕妃を、私は盗み見た。恋をしている本人にはわからないだろうけれど、その時の表情というのは、どんなに世界的に美しいとされる宝石や絶景よりもずっとずっと綺麗なものだ。私と話している時に見せる優しい笑顔なんて比じゃないくらい、梶を見ている時の夕妃は美しい。こんなものを規制し罪にするこの国は、頭が狂ってるんじゃないかと思うくらいだ。
 ただ――綺麗だと思うほど、私はこの状態の夕妃をあまり見ていたくない。そのくせ、先を急かす時の辛そうな顔を見るのも嫌という身勝手さに、自分が嫌になる。夕妃と一緒に梶を見つける度に、私は苦しい程の葛藤を迫られるのだ。
 私たちに気付くこともなく、梶が立ち上がった。姿が見えなくなり、夕妃は僅かに肩を落とす。それから、やっとこちらに向き直った。
「ごめん。行こ?」
 言いながら、目はまだ濡れたまんまだ。私は葛藤を振り払い、努めて上手く笑って返す。
「良いよ。まだ時間あるし――」
 その時。
 ごっ、という鈍い音が、渡り廊下の天井に当たった。
 何かが屋根の勾配の上を転がる気配がし、そのまま――渡り廊下と校舎の境目、夕妃の丁度真横に、それは落ちた。
「え――?」
 視線を落とす。セルロイドのような白っぽい肌色に、私は思わず目を凝らした。
 そして、息を飲む。
「ひっ――」
「――きゃああっ!!」
 私よりも先に夕妃が叫び、尻餅をついた。
 人だ。
 私たちと同じ紺のスカート、白いカッタ―シャツを着た、女の子、だ。屋根を転がった際に巻き付いたのであろうスカートから生白い太腿が伸びていて、上履きの緑のラインが、同じ三年生であることを示していた。
 そして、彼女の上半身を覆うカッターシャツが、血に染まっている。
「おい!! 何があった!?」
 声が聞こえたのだろう。八木先生が、社会科準備室の窓枠を飛び越してやってきた。たまたま近くにいたのであろう他の先生も、異変に気付いてやってくる。
「どのクラスの生徒だ!?」
「そんなことより救急車を! 早く!」
 中庭は瞬く間にパニックになった。野次馬の生徒が校舎の廊下から溢れ出、落ちて来た女生徒への悲鳴が多数上がる。私はやっと我に返り、尻餅をついたままの夕妃を振り返ったけれど、時は既に遅かった。
「水野(みずの)、立てるか?」
「だい、じょうぶ……」
 一歩早く、準備室から来たのだろう梶が夕妃の剥(む)き出しの腕を掴んでいた。梶に腕を引っ張られながら、夕妃の瞳が揺れる。屋根から血まみれの同級生が落ちてきたことと、不意に梶に触られたことの二つの困惑が、再び潤んだ目の中で混ざり合っていた。周りの状況など忘れて、胸の奥が何かにぎゅっと握り締められる。
 すると、
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!! アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!」
 突然頭上で声が上がった。今まで一度だって聞いたことが無いほどおぞましい金切り声は、途切れ途切れになりながらも長く続く。夕妃さえもびくっと肩を震わせるほどの声量に、一瞬鳥か何かとも思ったけれど、違う。この声音は確かに人間の――男の人のものだ。
「屋上……?」
 上を見上げた梶が、何かを察したように息を呑んだ。私も気付いてぞっとする。女生徒は屋上から落ちてきた。下にいる私たちが叫ぶならともかく、彼女が元いた場所で叫ぶ人物がいるとすれば――考えられる彼の立場は一つしか無い。梶は何かを決断した顔で初めて私の方を見、腕を掴んだままの夕妃の身体をこちらに押し付けてきた。
「牧村(まきむら)、水野のこと頼む」
「え? ちょ、あんたは?」
「行ってくる」
 どこに。まさか――と確認する間もない。夕妃から手を離すと同時に、彼は走り出していた。どんどん集まってくる生徒の間を縫い、梶の白いワイシャツは全速力で階段の奥に消えていく。野次馬の誘導に当たっていた八木先生がそれに気付き、すぐに彼の後を追って行った。夕妃は私のシャツにしがみ付きながら、色々なショックで顔を蒼白にしている。小刻みに首を横に振り、悪夢にうなされているように何度も何度も繰り返し呟く。
「梶君、駄目だよ……行っちゃ、駄目――」
 落ちて来た女生徒は、既に他の先生たちによって移動されていた。顔は見えず、先生の誰かが掛けたジャケットから、長くて真っ直ぐな髪が覗いている。同じ学年なのはわかったが、私たち以外の殆どの女生徒が髪を伸ばしている所為で、それだけでは誰だかはわからなかった。
「行こう、夕妃」
 震えながら梶を呼び続ける夕妃の肩を抱き、私は保健室のある方向へ促した。保険医の先生も中庭に出て来ているけど、ベッドは借りられるだろう。力無く従う夕妃を連れて、私は野次馬の間を掻い潜る。最後にもう一度落ちて来た女生徒を振り返ったけれど、彼女の命の無事は最後までわからなかった。

(ディスタンス、濡れ落ちる花--FIN.)
※続きは同人誌『ディスタンス、濡れ落ちる花』にて読むことができます。