ディスタンス、濡れ落ちる花(01)

「伸びてきたね」
 向かい側に座った夕妃(ゆうひ)が、私の方を見て言った。
 声が飛び交う昼休みの真ん中。それで本当に足りるのかという程可愛いサイズのお弁当をつつく手を止め、こちらを見つめている。おっとりした目元を半月型にして、控えめに微笑んだ。
「髪。ありす、そのくらいが一番似合ってるかも」
「そうかな」
「うん。可愛いと思う。私は好き」
 言って、夕妃はまたお弁当の続きに取りかかった。少しずつゆっくり時間を掛けて食べていくから、いつもこちらの方が先に食べ終えてしまう。私は空になった自分のお弁当箱を片付け、苺オレのパックにストローを差した。
 可愛い。好き。夕妃の声は私や他の生徒よりも小さめだけれど、それは周囲の喧噪を縫ってはっきりと聞こえてきた。照れくささに視線を泳がせる私の体内、夕妃の言葉たちは苺の甘い味と混ざり合い、下腹部のずっと深くまで染み込んでいく。ちょうど、硝子に貼りついた二つの雨粒がくっつき合い、垂直に流れていくように。濡れた窓に映った自分を見ながら、頬にかかるほどの髪をつまんで長さを確認する。元は長かった髪を四月にばっさり切り、今は少し伸びてショートボブになっていた。毛先が襟足につくくらい。覚えておこう。
 高校に入学したくらいの時、「他人に好印象を与え、人生を豊かにする外見の条件」という統計が世間的な流行になった。女性は髪が長い方が美しく見え、髪を耳に掛けたりして顔を良く見せると、自信があり賢い印象を持たれる――なんていうその結果はたちまち学生のスタンダードになり、皆何の疑いもなく同じ髪型にしだした。今では他の生徒に言わせれば、髪の短い女子は周りに順応できない変わり者だ。夕妃もずっと短めにしているから、私たちは二人でいると校内では結構目立つ。けれど、私自身がロングヘアでいることに疲れたのだから仕方がない。
 夕妃の耳を隠すような重めのボブヘアは、補聴器をしている耳を隠すためのものだ。生まれつきの難聴で、補聴器が無ければ自分の声さえよく聞こえない。静かな授業中ならまだしも、喧噪の激しい昼休みでは、すぐ側にいなければ会話の内容を判別できないようだった。夕妃と仲良くなってから、私はそれまでよりも大きくはっきりとした声で話すようになった。
 自分のお弁当箱を片付け、パックのミルクティーを飲みながら、夕妃は窓の外を見る。中庭を囲う生け垣の躑躅は見頃を終えて、今はその奥にある紫陽花が満開になっていた。濃くて明るいブルーの萼たちが、まるで青い灯火のように幻想的に中庭に浮かび上がっている。
「そういえば、雨止んだんだね」
「四限が終わるのと一緒に止んだよ。やっとって感じ。でもまたちょっとしたら降るんだろうな。梅雨ってきらーい」
 大げさに言った私に、夕妃はまた小さく微笑んだ。
「夏は?」
「夏は――」
 去年までの私だったら、きっと夏は嫌いだと答えていたはずだ。何たって暑い。それに夏期講習や何やらで、結局殆ど毎日学校に来なくてはならない。三年生になった今年は特にだ。去年までは何かと理由を作ってさぼることも可能だったけど、大学受験を控えているから何よりも優先しなければならない。
 だけど、今年の夏は夕妃がいる。それだけで嫌いな夏期講習も頑張れるし、時間外でも受験勉強を理由に会うことだってできる。親戚の家に行くお盆の数日を除けば、今とほぼ同じかそれ以上に一緒にいられるのだ。考えただけで胸が兎みたいに飛び跳ね出すほど嬉しい。顔にまではみ出て来そうなのを堪え、私は勤めて普通の表情を作った。
「どうだろう。なってみないとわかんないな――」
「無い無い無い! あいつマジで馬鹿だから!」
 答えた私の声に被さるように、すぐ後ろにいた男子グループの一人が声を張った。担任教師の愚痴を言い合っているのだろうが、言葉の汚さに私は思わず眉をひそめる。夕妃と話して上がりかけていた気分が、モグラ叩きみたいに一発で下がってしまった。
 教室内を見渡せば、同じような悪意が一斉に私の耳を掠めてくる。耳を塞ぎたくなる衝動を、苺オレの残りを飲み干すことで堪えた。男子の大声も、女子のひそひそ話も、落雷のように突然起こる笑い声も、それら隙間で交わされ合う視線も、私は何一つ好きではない。し、あの輪の中に入っていた去年までの自分自身も嫌いだ。  退屈と悪意と焦燥で、教室内の空気は常に濁っている。クラスメイトは皆同じような容姿、同じような思考をしているくせに、誰もがお互いを監視し合っていて、他人を貶す言葉を簡単に口にする。そのくせ自分が言われるのは嫌で、闇雲に声の大きい他人に合わせるのだ。今も私の背後では、最初に声を立てた男子に対して同意する声が次々に聞こえた。
 彼らはリーダー格の生徒を決して慕っているわけじゃない。集団からはみ出て攻撃されるのが嫌だから、表面上合わせているだけなのだ。あのグループの中の誰かが、もしくは全員が本当はわかっているはずだ。こんな所で悪口を言っているだけでは何にもならない。負のエネルギーを自分以外に当てる行為なんて、欲求不満とストレスを一時的に忘れられるだけで、自分も周りも得をしない、ただただ虚しい行為だということを。
「ありす?」
 黙り込んだ私に、夕妃が心配そうに声をかけてきた。後ろの男子たちの会話の内容までは聞き取れていないだろうが、あまり良い空気ではないのを夕妃も感じているのだ。夕妃は難聴な分感受性が強く、周囲の感情に酷く敏感だ。私は短く首を振り、下がった気分を再度上げるように勢いつけて立ち上がる。
「次、視聴覚室だよね。ちょっと早いけど行っとこうか」
 一時的にでも、教室の空気から解放されたいのもあった。でもそれ以上に、早めに移動すればその分二人きりでおしゃべりができるという下心がある。
これは、夕妃には絶対にばれてはいけない感情だ。一緒に時間を過ごすほどに増していく独占欲を、私は友達という立場を盾にして隠す。さもなければ私は、夕妃をいつか思いもしない形で裏切ってしまうだろう。
 初めてこんなに仲が良い友達ができた。思い切って下の名前で呼び合うことを提案した私に、夕妃がそう言ってくれたのはつい先月のこと。私だって、これほど仲良くなりたいと思った同級生は夕妃が初めてだ。一緒にいると、居心地の良さと緊張が丁度良いバランスで調和して、私の体内に穏やかな波を作る。引いては押し寄せてくる刺激が、私の淵から溢れそうにたゆたうこの感覚は、他の誰かからは決して得られない甘美なものだった。
 けれど、至福の時間はいつだって長くは続かない。二人で連れだって教室を出て視聴覚室のある一階まで降り、三棟からなる校舎を貫く渡り廊下まで来て、ふと、夕妃が脚を止める。ぽつぽつと交わしていた会話は完全に切れ、おっとりした目元を眩しげに細めながら、私ではない遠くの一点をじっと眺めだした。
 ああ――数歩進んだ位置で立ち止まり、私は嘆息する。夕妃の視線の先を辿り、私は向かいの校舎の同じ一階にある薄暗い教室を見た。いつもは締め切っているカーテンが半開きになっていて、窓越しに一人の男子生徒の横顔が見え隠れしている。
 あの教室、社会科準備室は、本来社会科の八木(やぎ)先生が私物置き場として利用している場所だ。ただ、夕妃の目的は先生じゃない。先生と仲が良く、先生のテリトリーに入り浸っているあの男子――梶(かじ)を、夕妃はいつもこうして遠くから見つめている。