Baby, cry for me.(02)

 未だに思い出しては胸が詰まる。しかも、答えは自分でももう既にわかっていた。
 あの時、私は何も考えてなかったのだ。
 いつもそうだ。こうして一人でいる時はともかく、グループの中にいる時、私はいつも思考することを忘れてしまう。前から引っ張って貰っているから大丈夫だと思い込んで、平気でハンドルを手放してしまうのだ。補聴器を盗んで何になるのか、誰が得するのかとは、確かに感じていた。けれど、言えなかった。言えば白けられる、ノリが悪いとやっかみを買うから――という理由は、その後自分を納得させるために取って付けたようなものだ。本当は単に思考を放棄していたから、心では違和感に気付いていても、空っぽの脳はそれを汲み取らなかっただけなのだ。だから私は、咄嗟に良いよなんて返事してしまった。
 だから。
 テストの結果が発表された後、順位が一番低かった――水野の補聴器を盗むことになった子が、怖々私たちを見回してきた時にも。
 私は、不意に視線を反らせていた。
 賛成はした。確かにしたけれど、それは私自身が望んだことじゃない。
 だから私をそんな目で見ないで。私のせいじゃない。あなたが、一番成績が悪かったのがいけないんだ。そう言い聞かせるのに精一杯で、やっぱり辞めようという言葉も出なかった。
 四限目の体育の終わり、着替えの途中にそれは実行された。しかも、私たちは好奇心で補聴器を回し見して、装着部分をいとも簡単に壊してしまった。昼休みが終わる前にでも、拾った体で水野に返せば良い。短時間なら平気だ。ただの難聴で、完全に聞こえないわけではないんだから――なんて甘い考えを持っていたのもある。その上、補聴器というものがこんなにも壊れやすいと予想することさえもできなかった。
 怖くなった私たちは、素知らぬふりでそれを中庭に捨て置いた。こうすれば、壊したのが私たちだとはまずばれないだろう。私たちじゃない。私たちは悪くない。世界があまりにも退屈で、水野が弱いのが悪いのだ。けれどそう自分に言い聞かせながら帰った教室で、補聴器が無いことに気付いた水野が不安に身体を震わせていた。
 机の中を探し、教室の床を探し、当然見当たらず、午後の授業は身を縮こまらせていたのを覚えている。周りの音がどう聞こえていたのか、どのくらい聞こえていなかったのかはわからない。けれど水野にとって、十分には聞こえない状態で授業を受けること。教室内の誰かが補聴器を盗んだのかもしれないということ。自分が聞こえない状態だと言うことが、その誰かに知られていること。その全てが恐怖だったに違いない。帰りのホームルームが終わるとすぐに、顔を蒼白にさせたまま足早に廊下へと出て行った。
 あの時感じた戦慄をスリルと言ってしまうほどの度胸は、私には無い。
 言葉にすれば良かった。シャットダウンしていた脳をなんとか立ち上げ、心にあった違和感をちゃんと外に出せば良かったのだ。
 そうすれば、誰も傷つかなかったのに。
 あれから半年以上が経っている。私も、グループの子たちも、水野も、何一つ変わっていない。なのに――いや、だからだ。だから煮え切らない。眩しいほどの西日に目を細め、私は自分にだけ聞こえるほどの微かなため息をついた。終業式、つまりこのクラスが終わるまであと一週間ある。それが過ぎれば、きっとグループは自然に解消されるだろう。同じメンバーで集まることなんてもう無いだろうし、あの時のことなんて誰も口にしない。それぞれが別のグループに納まり、新しい、それでいて何も変わらない退屈な日常に、後ろめたい記憶はすぐに埋まって見えなくなってしまう。
 本当に、それでいいのだろうか。
 カーテンの裾を掴み、私は校舎の影に身を潜める水野をただ見つめている。中庭にも廊下にも、他の生徒は誰もいなかった。もしかして今は、あの時のことを水野に謝る絶好のタイミングなのでは無いか。
――と。
 渡り廊下の方から、第二の人物が歩いてきた。濃紺のブレザーのやや広い背中が、小柄な水野の元へゆっくりと近づいていく。
「あれって……梶(かじ)?」
 水野と同じ異分子になってしまったクラスメイトの男子の名を、私は思わず呟いた。
 二人とも教室では孤立している存在だ。だけど、ベクトルが違う。梶は元々真面目で成績も良い優等生だったのだけど、一学期の終わりに校内である事件を起こした。それをきっかけに、二学期からは何となく他の生徒と距離を置いている。し、置かれている。いつも心ここにあらずな、私たちに輪を掛けて退屈そうな顔をしているのに、目だけはやたらとぎらついていてちょっと怖い。暴れたりだとか、他の問題を起こす事は一切ないけれど、完全に触ってはいけない生徒――ひと昔前の言葉なら、不良と言うのだろうか――に、梶はカテゴライズされてしまっていた。
 何で? 見つかってしまわぬよう更に身を潜め、それでも私はその予想外な組み合わせを凝視する。異分子同士である二人が一緒にいるところなど、教室でだって一度も見たことが無い。
 二人は何か話している風だった。窓は閉めたままだったから、声は聞こえない。不意に水野が梶に向かって顔を上げ、私は更に釘付けになった。教室では見せたことのない――というより、水野以外の生徒でも、あんな表情は見たことはない。普段の控えめな作り笑いからは想像できないくらいの真剣な表情で、目の前の梶に訴えかけている。
 けれど、水野はすぐにすっと色を変えた。梶が何かを言ったらしい。水野は黙って彼を見つめながら本当に小さく頷いた。そして少しの間の後、もう一度口を開く。真っ直ぐに梶を見つめ、泣き笑いのような形容しがたい表情で何かを伝えている。梶の表情は見えない。私は唾を飲み込み、一ミリもその場から動けず、まるで捕らわれてしまったみたいにじっと二人を注視していた。
 何秒経っただろう。西日が傾いていく中、梶が動き、躊躇いがちに水野の二の腕を掴む。意を決したようにきゅっと目を閉じた水野に向かい、彼は少し首を傾げ、そっと顔を近づけていった。
 静寂。淡く紅い光の中で、二人は間違いなく唇を重ね合わせている。時間は情景をゆっくりと包み込み、風に揺れる桜の蕾さえもスローモーションに見えた。まるで映画のワンシーンだ。校舎の影の角度。遠くの空を夜へと堕としゆくグラデーション。焦れるような西日の温度まで、今だけは、二人のためだけにあるものだった。
 心臓がドッドッドッと強く打つ。何もしていないのに息が上がり、お腹の奥の辺りで何かがつんと沁みた。
――禁忌だ。
 私たちがしてはいけないことを、二人はしている。
 今のこの国では、男女の交際は二十歳以上にならなければ認められていない。恋愛という文化も、結婚、出産というものの仕組みについても、二十歳になって初めて行政機関から教育されるものだった。口吻という行為そのものや、それが恋愛や性に直結する行為だということ自体は知っている。けれど、例えば映画等の視覚コンテンツでは成人向けに指定されている程、当然未成年である高校生の私たちには常識として許されていない行為だ。
 それでも、私は声も上げず――むしろ息を殺して、二人の行為を見つめ続けていた。見てはいけないものを見ている背徳感と高揚感が、私の身体をいっぱいに満たしていく。二人はただのクラスメイトではなく、既に私とはまるで別の次元の存在になっていた。
 触れ合った時と同じく、ゆっくりと二人は離れていった。水野は夢を見ていたようにうっとりと目蓋を上げ、はにかむような、それでいて酷く悲しいような表情でもう一度梶を見つめる。そして――
 その瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。夕日が当たっていなければ気がつかなかったであろうそれは、水野の頬に小さな光の軌跡を作る。
「あ……」
 ついに、声を出してしまった。
 ありがとう。
 水野の唇が、確かにそう動いた。そのまますぐに梶から背を向け、足早に去って行く。その小さな背中が見えなくなるまで見送った梶がこちらに振り向きかけ、私は慌てて窓の淵に全身を隠した。
 心臓はまだドッドッと音を立てている。落ち着くのを待ってもう一度外を見ると、当然梶もいなくなっていた。日はとっくに沈み、夜はもうすでに始まっている。夕日の眩い紅と、水野の瞳から流れた一筋の金色だけが、この一瞬に近い時間で私の脳裏に刻印みたいに焼きついていた。

(Baby, cry for me.--FIN.)
※続きは同人誌『Baby, cry for me.』にて読むことができます。